特性

最近、一般的な幸せって誰がどういう基準で

定義されるのかなと考えます。

 

私自身の話ですが
幼稚園の頃からちょっと変わってる所があったようで
実際に自分でも周りから浮いてしまっているのに
なんとなく当時から気がついていましたが
その原因は今だに分かりません。
 
たまたま、最近ご縁があって
「医師の診断の有無に限らず
 社会で生活するのに何らかの障害を抱えていると
 ご本人が感じていらっしゃる人達」と
お付き合いする機会が増えたのですが、
私がその方たちとお付き合いしていて感じたのは
「確かにキャラは濃いが、正直で素直な感じ」
としか感じません。
 
私は以前も書いたように
35歳くらいまでは自分自身で「これでは周りになめられる」だとか
「カッコつけないと」というような感情にとらわれていたために
周りをよく見ていない部分があり、
たまに見かける独特の方達のことを
「社会から差別されたり区分けされてちょっとかわいそうだな」
「感情のコントロールが極端にできない人なのかな」と
勝手に想像していただけなのですが、
実際付き合ってみるとその考えは全く違うことに気付きました。
 
その頃の私は人間の幸せの目標とは
「努力して勉強をして良い会社に入り、
 安定した生活を送り、無事に老後を笑顔で過ごして
 エンディングを迎える」
「真面目に活動しているところを
 誰かが自分の才能を見出してくれて引き上げてくれる」
という程度に感じていたのですが、
「果たしてこれが良い人生と誰に教わったのだろう?」と考えると
どうやら自分で考えたものではなく
おそらく大人達から聞いた話であったり
映画やドラマや漫画から得た影響かなという気がします。
 
もちろん、そういった平凡に幸せな人生であったり
ドラマのような展開の人生というのも
努力してどうにかなるものではないので
素晴らしいことだとは思いますが、
「自分の幸せな人生」として考えた場合に
果たしてそれが目標なのかと考えると
「ちょっと違うかな」と考えるようになりました。
 
というのも、
障害を感じられている方とお付き合いをしていて
なおさらそう感じるようになったわけなのですが、
人の幸せはそれぞれ違うものであり
こちらがお話を聞いた際に勝手に
(大変そうだ)とか(お気の毒だ)と感じても
実際のところ、当のご本人はそんな中でも
毎日楽しく幸せに笑顔で過ごしていたりするわけです。
 
私は自分自身の固定観念でがんじがらめになって生きてきたので
「社会において正直に素直に生き通すということの難しさ」が
とてもわかります。
少数派になってしまった場合には
世論や世間に受け入れてもらえないことが度々あるからです。
でも、そういった素直な方達は
常に心の声が聞こえていて自分自身と対話して
生きているように感じます。
 
私自身もおそらく少数派であるために
学校に入っても、会社に入っても浮きっぱなしでしたが、
この方達と一緒にいる時は全く浮くことなく
みんなそのままの自分を受け入れてくれるので
気持ちがとても楽です。
こういう方たちのおかげで
「自分自身もう一度今度はしっかり生きるぞ」という気持ちを
持てました。
 
落ち込んだ時の立ち直りの遅さ、
逆に楽しい時は表情からすぐわかるところ。
かけひき抜き、損得なしで生きてるところに魅了されます。
 
認定は誰がするのか、基準は何なのか、そういったことを考えもせず、
人が考えた認定基準に当てはまったというだけで
「区分けされた人たちなんだ」と勝手に考えていた自分が
今考えるととても恥ずかしいですが、
今はむしろそういった方たちと真っ直ぐ最後まで
心からお付き合いしつづけようと決めております。
 
本当にいつも活力を貰ってばかりなので
どういう形であれ、彼ら(彼女ら)の笑顔が増えるよう
自分もどんどん恩返しできればと考えてます。