体罰=❎

こんにちは。

今日は体罰について書きたいと思います。
 
私自身、幼少の頃に親以外の大人から叩かれたことが
今でも鮮明に記憶に残ってます。
今考えてみると、
その人は自分の思い通りにならないと
感情をコントロールする事が不可能になり
暴力を奮ってしまい、
それを「躾け」という言葉で
自分自身を正当化している事にも気がつけない
大人になりきれていない人だったと私は思っています。
 
小さい頃の私はその人に何度も叩かれたことで
(何かするとまた殴られる)と思い
普段から常に笑顔と「ハイ」という返事をして
接するだけになったことを覚えてます。
残念ながら、今だにまったく尊敬の念は抱けず
心の底から軽蔑するのみで
むしろ自分がこういう大人にならなかった事に
安堵すら覚えております。
 
私は現在2人の子供がいて
20年ほど前に長男が生まれたことで
「父親」という立場にはなりました。
まず「父親」というものがどんなものかわからず
本来の自分自身は置き去りにして
ただえらそうにしていただけですが(笑)
30歳半ば過ぎたあたりから
父でなく私として付き合わないと
 彼らに何も伝わらない」ということに気付きました。
 
例えば、うちだけではないと思いますが
子供たちはたまに感情が抑えられなくなり、
大人に対して不遜な態度や言動をする場合があります。
(感情が抑えきれなくなってるなぁ)と感じた時に
大人のこちらもイラっとくることもありました。
そういったときに、自分の体験を思い出してみても
「叩く」のではなく、
「抱きしめる」、「受け入れる」、「聞く」、「励ます」、
「応援する」といった「包容力」の方が
相手の心には残り、実際に効きます。
逆に、叩いたり暴力で言うことを効かそうとすれば
恐らく相手の心に怨みや反発心しか残せないです。
 
毒親・アダルトチルドレンなどの言葉がありますが
小さい子供や、配偶者、生徒さんなどに
暴力をふるってしまう方は
過去に何処かで自分自身の心が故障してしまう出来事があり
修理して貰えていない
もしくは自分自身が壊れている事を認められないという
状況もあるのではと感じてしまいます。
 
暴力や体罰で人の心はこちらに絶対に向きませんし、
万が一「相手が言うことを聞いた」と思っても、
それは恐怖心による建前だけであり、
お互いの存在の理解にはつながりません。
結果として、誰も幸せになれないです。
 
それよりもむしろ、
沢山の個性を認めて抱きしめて受け入れた方が
みんなが必ず幸せになると私は信じてます。
 
というのも、
私にそのように接してくれた方たちのおかげで
私自身も周りの人の存在を受け入れることができるようになったり、
ちょっとした困難、辛い事にも笑って立ち向えるようになったり、
夢を見続けて楽しめる時間が増えたと思えるからです。